昭和49年10月27日 朝の御理解



  御理解 第54節
  「徳のないうちは心配する。神徳を受ければ心配はない。」

 信心をして受けるおかげというものは、信心をしなければ頂けぬもの。信心にならなければ頂けぬもの。それを私は神徳だと思うです。おかげを受けると言う事。例えば金銭のお繰り合わせを頂くとか病気の時に助けてもらうとか。様々なおかげを受けると言う事はそれは、場合によったら信心がなくて、結構それぞれに立ち入っております。信心がなかっても矢張り都合お繰り合わせというか、自分ではおかげと思ってないでしょうけれども。信心はなくても金がなからにゃ借りに行きゃ良し。
 身体が悪けりゃ医者に行けば良し。そして矢張り金銭のおくり合わせも頂いておるし、病気のぜんかいのおかげも頂いておるのですから。これは信心があってもなかってもです、同じような感じですよね。けどもこれだけはね、信心しなければ頂けないというのが、私は御神徳だと思うです。だからせっかくお互いがね、こうして信心をさせて頂くのですから、神徳が身についていっておると。神徳を受けておると。神徳を受けていくと言う事が楽しいのである。
 例えばどうでしょう、私共の日常生活の中に、どう言う事があっても不安がない。いわゆる心配がないとおおせられる。神徳を受ければ心配はないと。徳のない間は心配する。神徳を受ければ心配はない。心配のない世界。それが本当の極楽です。不安がない心配がない。それは起きてくることは、さまざまな事が起きてまいりますけれども。本当にそれが神様の、一分一厘間違いのない、働きのなかにあるんだと、信じさせて思うたら不安はない、心配はない。
 これは皆さん折角信心するのですから。身体が悪いから薬を飲む医者にかかる。金がないからどこどこに借りに行くと都合して貰うと。それだったら信心がなかったって、出来るでしょうが。その上またお繰り合わせをお願いして、いうならば医者が見放したという病人であってもです。今度はあの椛目の子供が生まれたことでも、その翌日小野先生が見えましてから。親先生本当今度ばっかりは、面目次第もございませんと。しかし親のほうが助かりましたから。
 そらぁ私と家内を前にしてから、その何て言うですか諦めさせるつもりだろうと思うんです。また医学から言うたら、もうあの時ご覧になった通りに、身体は紫色になってしまってでしたから、あれはもう死にますと、小野先生は言われました。けれども私は一つも死ぬという気がしないんです。また生きても死んでも、神様の是は翌日の話なんです。昨日先生参ってきてからですもん。親先生助かりよりますよと言う訳なんです。婦人科から見たら絶対助からないんだそうです。
 ところが小児科のほうに今回っている訳です。そしたら助かるじゃろうとこう言ってる。それは椛目の者は誰も知らない。私と家内に小野先生が翌日お話をした時には、既に私は死期の宣告を実は受けておったんです。翌日あの話をしましたですね。けども家内も一つも慌てませんしね、私もそれを口にも出しませんでしたし、問題はおかげを受ければ良いのだ。そしてそこの向こうには生きても死んでも、一分一厘間違いのない神様の御働きの中にあるのだからと言う訳です。
私は神徳を受けておるという訳でもないでしょうけれども、神様の働き一分一厘間違いのない働きのなかに、たとえ四十時間なら四十時間という時間があったんですから。私、ここを頂かなければ、金光様の信心の値打ちはないと思うです。そういう頂き方をして行く所に、私はいよいよ神徳が付くと思うですね。神様のご信用はいよいよ強くなってくる。産婦人科から見た所では、もう死ぬるんだと決めてしまってました。けども一日二日と経っていく内にです。
 昨日小野先生が見えてから、まぁ大嬉しいごたる風で、昨日まぁ心配になってあちらへ行かれたんですね。所が小児科のほうへ回った所が、これは助かりよるとこう言うのです。そういう場合でありましてもです。言うならば驚かんで済む。何と申しますか、昨日も土井の共励会で、私は丁度最後の御祈念をさせて頂いておるのが、十一時半ぐらいだったでしょう。御祈念をさせて頂きよりましたら皆が帰ってまいりました。
 それから御祈念が終わってからしとりましたら、あの末永さんが今日はもう、大変弟がおかげを頂いてと言うんです。今黄楊会の方達が交代で共励会に行ってるんです。昨日は喜久雄さんが、もう遅うから九時ごろから行ったんだそうです。ところが後ろから酔っ払い運転の五人乗りの大きな車が追突した。追突されたもんですからハンドルを右のほうに切った時に、向こうからスピードで走ってくる車と、あわや正面衝突と言う所だった。それを向こうのほうの人がハンドル切ったんでしょう。
 正面にも少しは当たったけれども、胴腹をパンとかすってもう前も後ろも、横もぐちゃぐちゃになってる。しかも本人は土井の共励会に、おかげを頂いておる途中の事なのです。どうしたこっじゃろうか。言うなら神様へ心を向けておる時、そう言う事が起こってと言う様な考えが起きる間は、絶対神徳は受けられません。神様へ心を向けていっておっての事であるから、神様のお働きの一分一厘間違いのない働きの中に起きておる事であるから。それが例えばそこで即死しておってもです。
 そういう頂き方です。また事実がそうなのですから。神様に向こうて行っておっての事であるから、神様のご都合に違いない。どういう事か分からん。またそれが簡単に分かるような神様じゃないです。どんなに分かろうとしても分からんのが、天地の親神様のお心であり働きです。そんなに広くて深いのです。けれどもただよりおかげを下さろうとする働きである事だけには間違いがないのです。
 土井の共励会から皆がこちらへ帰って来る時に、そげん言やほんにあそこで事故が起こっておってから、はよ行けはよ行けち言うてこう言うもんだけ、みんな帰って来たらしいんです。所が丁度椛目の宮崎さんがどっか行かれて帰りにそういう、ガタガたしよる所だったから見たところが、喜久雄君だもんですからびっくりしてここへ電話を架けた。電話架けたから末永先生がまぁ行った訳なんです。
 勿論全面的向こうが悪いのですし、けれども自動車と自動車との間がこの位にしか無かったげな。まぁ言うなら一寸位しかなかったち言う。あれが一寸違うとったらもう絶対正面衝突になっとった。後ろから追突されそれこそ中はびっちゃげてしまうでしょうね。後ろから追突されたハンドルを切った。だから向こうの方から入って来る道の方へ、こう丁度椛目のね向こうのこう下に下が深くなってます。
 あそこのところへもう落ちるばっかりのところだったんです。話を聞きゃ本当にぞっとする様なお話なんですけれどもです。そう言う様な場合です。信心しよってからお参りしよる途中に又は、共励会に行きよる途中に、そう言う事があると言うのは、どういう訳じゃろうかと言う。まぁだその位な考え方しか出来ん時には、御神徳は先ず絶対受けられないと思うて良いです。だんだん信心の力を積むというか体験をさせて貰うて、神様の働きには絶対間違いない。
 いうならば御取次ぎを頂いて起きて来る事、良い事悪い事みな良いと分からせて頂く所からね御神徳が付いて来るです。御神徳を受けたら絶対な事なんです。人間の幸福の条件は全部足ろいます。御神徳を受けたらどの様な場合であっても、不安がなくなります心配がないです。慌てんで済むのです。そういう御神徳というものはです。信心をしなければしかも真の信心をしなければ。しかもそれは相手が天地であると言う様な信心でなからなければ、御神徳というものは受けられないと言う事です。
 ですから皆さん御神徳を受けるために信心させて頂く。だから例えばその過程においてです。様々な事があったり信心しておっても、どうしてと言う様な事が起こってまいりましてもです。これはまぁだ信心が足りぬからじゃという心持ちになること。そしてそらどういう神様のご都合じゃろうかてんなんてん、そりゃ、人間で分かる筈はないです。ただ言えれる事は、神様がより大きな力を神様がより大きなおかげを下さろうとする働きだけである事だけには、間違いがないと言う事を。
 先ずぐ飲みにでも良いからそれを信じさせて頂く稽古です。日々の信心体験からそれが、何時の間にか言葉では理屈では、話では分からないのだけれども、自分の五体でですかね、体験していく自分の心にそれを確信していく。神徳を受ければ心配はないと言う程しの、生活に入られると言う事はです。信心をしなければ頂けんのです。どうぞ今日も商売が繁盛致します様に。今日もどうぞ無事達者で健康であります様にという願い。
 成程おかげを頂きます。けどもそれは信心がなかっても、結構やっておる人もあれば都合よう、具合ようやっておる人もあるし、九死に一生と言った様な時にでも、腑がようして助かる人もあるし、助からんというのがです、医者のおかげで助かると言う事にもなって来るのですから。そこまではおかげおかげと言うけれどもです。信心があってもなかっても、頂ける事だと言う事です。是は信心をしなければ頂けないもの。それが神徳なのです。私は二十数年振りですか。
 まぁだ初代の甘木の先生がおられる時に、一遍先生のお夢を頂いて、天地の道理の事やらを、そん時には先生が私の休んでおる蚊帳の中に入ってきてから、天地の道理陰陽の道理を、懇々と説かれた事がございました。今朝方私は甘木の先生のお夢を頂いた。まぁだそれは椛目のお広前のようです。丁度御結界があってこう一段低い所。ここん所へ座っておられます。それも紋付袴ではないけれども羽織袴、例えば昔の先生方が御本部参拝をなさる時には、まぁ私が御本部参拝するような格好です。
 普通の何か上等の着物をお召しになってる。そして袴もやっぱお付けになって、まぁどこにかお出でになられて帰りに寄られたと言った様な感じでした。私は夜月次祭が終わった後で、お届けが残っておりましたから、ご無礼しながらちょっとここを終わってからご挨拶しようと思うて。所が家の修行生の方達が、安武先生を知らないんです。はぁあんた達は安武先生を知らなかったのかと。
 写真では見ていなかったのかと。この方が安武先生ですよと。日頃何時も御教えを頂いておる、初代の安武先生ですよと言うて御結界から紹介をしよる。それで皆があただに、安武先生の周囲に集まって、それから当時は楽室のほうで、お茶が出来る様になってましたから、あそこで、お茶を差し上げておるお夢でした。そして後にお帰りになるという時にです。そしたら今日が確かあそこの御大祭じゃないでしょうか、秋の教祖大祭です。そしてねもう懇々と色んな事が、話し合いがございました。
 本当にもうびっくりしました。甘木もなからなければ、久留米もない合楽もないそれをね、どう言う事かと言うとまぁ言葉に出して、私が今日そこん所をこの先日から、御本部から頂いておる道しるべという本に出ておる。ここを頂くのです是と同じ様な意味の事も色々合楽の事も頂きましたが「教える親はあっても、習う子がないと色々話して聞かせてもそれは出来ぬといいます」と言うのです。ここでもそういう人がありますよ。
 親先生のごたる訳にはいかんち言う。と言うのがそれなんです。是は私が修行中の時分は勿論私は信者でした。けれども金光大神の教えを頂いておると言うのは、教師も信者もないと思うておった。どうでもおかげを頂きたいから初代の桂松平先生、福岡の初代の吉木先生久留米の石橋先生、安武先生辺りがなさったという修行のあらゆる修行を聞かせて頂いた。そして桂松平先生はどういう修行をなさったげな、福岡の初代はこういう修行もなさったげなと言う修行をです。
とてもそげ生ねは出来んじゃなくて、私は先生方もやっぱ人間じゃから人間がした修行で、出来んはずはないと思うて私はどの先生の修行でも、一通りさせてもらいました。私は信心にはね、今日のお徳を受けるその時分には、お徳を受けようてんなんてんな思わなかったです。けれども私は何時もお話する様に、先生方がなさった修行が自分に出来ないはずはないと思いました。また金光様のご信心での教祖金光大神の御教えというものはね、行じて行じられない教えは一つもないです。
 貴様一生妻帯をしてはならぬとか。生臭きを食べちゃならんとか。酒は飲んではならんとか言う。そういう厳しい御教えはないですもん。私共が頂こうと思うたら誰でも頂ける御教えばっかりなんです。ですから今のこの御教えにあります様に、親が自分の頂いておるものも、子供に伝えようと思うて言うて聞かせよるけれども。色々話して聞かせてもそれは出来ぬと言いますと。どうにもこうにも仕様がないじゃないの。それは出来ぬと言います。お徳を受けるためにはここだと言う事を言うた。
 いやそれは出来ませんというなら、それ切りじゃないの。おかげを受けても神徳を受けると言う事。私は一段と今度今朝からの、甘木の親先生との言うならば、お話を聞かせて頂いてです。先生さもありましょうと言う思いで一杯でした。先生残った弟子にも子供達にもです。もう本当に自分の頂いておるものを、渡そうと一生懸命になっておられるのです。それで私の所にまで、お立ち寄りになっておると言う事です。
 親の言う事をここば言う事を聞きゃ、徳が受けられる事が分かっとるのだけれども。それは出来ませんと言うち。ほんならそれが出来んと言う事は、本当に難しい事かと言うと、その気になれば誰でも出来れる事なのですけれども。今別にどう困った事もない様な状態でありますとです。その僅かばかりのおかげに腰掛けて、先に進もうとしません。神徳を受ける信心修行でもさせて頂こうと言う事を致しません。
 ここでもです私が皆さんにこうやって聞いて頂いておるお話がです。決して皆さんが実行しようと思うて出来ない話は、一つもしておりません。ですから真似にでも真似方でもです。やっぱさせて貰うという気持ちがなからなければ、神徳は受けられません。しかも金光大神の御教えはです。この教えの全てがです。私は、神徳を受けるための御教えであると思います。おかげは、序の口です。
 ただおかげだけで、甘んじらずに、本気で、親のいう事を聞く気になって。御神徳を受けてどの様な場合であっても、心配せんですむ不安はない心配はない。そういう心の安らぎの状態に頂けるのが、人間の幸福の条件が、全部足ろうてくると言う事。健康にもなる、財にも恵まれる。勿論、人間関係などは、もうただ、円満な心の状態だけしかない。しかもそれが、あの世にも持って行け。
 この世にも残して置けると言うのですから。是だけは信心をしなければ頂けないのですから。お互い信心させて頂いておるのですから、そこを頂くための信心をさせて貰わなければなりません。それは分からん事が沢山あります。けれどもお取次ぎを頂いて起きて来る事であるから、良い事悪い事、全てが良い事だと頂けれる。そういう観念をです。愈々自分の心に強く頂かせて貰うおかげを頂かせて貰わなければ。
 信心しよってどうしてこげな事が起こったじゃろうかてんなんてん、言う位な心の状態には、お徳は付きません。いやぁもう神様のご都合じゃが、神様が本当により力を下さろうとしよる働きだと言う様な頂き方をもってです。これはまぁだ信心が足らんからじゃと言うて一段と、信心を進めていくという気になればです。御神徳は誰でも受ける事が出来るのです。それこ心配のない日々を過ごしていくおかげが受けられるのです。
   どうぞ。